1月29日(水)、『徹子の部屋』に女優の樫山文枝さんが出演します。2020年12月に亡くなった夫、綿引勝彦さんとの思い出やエピソードが語られるようです。
実は、樫山さんは結婚するまで実家で暮らしていたそうです。
夫の綿引勝彦さんが亡くなったことで、樫山さんは初めての一人暮らしを経験し、「買い物や掃除も、すべて自分でやっています」と語っています。この話から、樫山さんがもしかするとお嬢様育ちなのでは?と想像してしまいます。
では、樫山文枝さんはどのような家庭環境で育ったのでしょうか?今回は、樫山さんの伯父やお父様にまつわるエピソードを交えながら、樫山さんの家族背景について探っていきたいと思います。
伯父:樫山純三はオンワード樫山の創業者で馬主
樫山文枝さんの伯父(お父さんの兄)である樫山純三さんは、「オンワード樫山」の創業者であり、同社の会長も務めた、いわば経営の達人です。
オンワード樫山は、今では日本を代表する衣料品メーカーとして知られていますが、その基盤を築いたのは、樫山純三さんの商才と努力によるものでした。
樫山純三氏の略歴

樫山文枝さんの伯父・樫山純三さん(出典:Amazon)
樫山 純三(かしやま じゅんぞう)
- 生年月日:1901年9月21日、長野県小諸市)に生誕
- 学歴:尋常小学校卒業後、三越呉服店に丁稚として入店、大阪貿易学校卒業
- 1927年2月:大阪で樫山商店を設立
- 1947年9月:樫山商店を株式会社化し、オンワード樫山(現:オンワードホールディングス)の母体となる樫山株式会社を設立
- 1960年10月:オンワード牧場を創設
- 1977年:樫山奨学財団を設立
- 1986年6月1日:死去。84歳没。
樫山純三氏の生い立ちと学歴
樫山純三さんは1901年9月21日、長野県小諸市に生まれました。家族は伝統的な商家で、父親が商売をしていたものの、経済的には決して裕福ではありませんでした。
樫山さんは兄が大学に進学する中で、次男ということもあり、小学校卒業とともに家計を支えるために働かなくてはならなかったそうです。
その後、商業の道を志して三越呉服店に丁稚(でっち)として入店。商業の基礎を学びながら、独学で学問を続け、さらに学びを深めるために大阪貿易学校に入学、卒業を果たしました。
この地道な努力が、のちに経営者としての基盤となり、樫山純三さんを大企業の創業者へと押し上げることになります。

この学びが後の経営者としての基盤となったんだね
樫山商店からオンワード樫山へ
1927年2月、樫山純三さんは大阪で「樫山商店」を設立します。
最初はスポーツウェアを扱う小さな商店でしたが、品質の良い製品を提供することで、次第に評判を呼び、成長を遂げました。この樫山商店が、後の「オンワード樫山」へとつながります。
株式会社化と「オンワード樫山」の誕生
1947年、樫山商店は株式会社化し、「樫山株式会社」を設立。このころから「オンワード樫山」という名前が企業の顔として定着し、世界的に有名な企業へと成長を遂げました。
名前の由来は、樫山さんが愛していた賛美歌「オンワード・クリスチャン・ソルジャーズ」から。前進的な精神を象徴するこの名前には、樫山さんの強い意志が込められていたのです。
オンワード牧場と競走馬の世界
1960年、樫山純三さんは「オンワード牧場」を設立。広大な敷地で競走馬の育成を行い、数々の優れた競走馬を生み出しました。
自社の名前を冠した競走馬たちは注目を集め、牧場の名声を高めました。特に「ミスオンワード」や「オンワードゼア」などは、競馬界でも話題になった存在です。
オンワード牧場とは
日本競馬史において、桜花賞、オークスの無敗の2冠を達成したのは、ミスオンワードただ1頭。
— 阪神競馬場【公式】 (@HanshinKeibaJo) May 23, 2020
牡馬の無敗の春2冠は複数出ていることから、牝馬の難しさを伺い知ることができます。
明日史上2頭目の偉業達成なるか、注目が集まります。
素晴らしいレースになりますように。#みんなで振り返る重賞列伝 pic.twitter.com/TPPCS8V16W
オンワード牧場は1960年に設立され、競走馬の育成に力を入れました。約165ヘクタール(50万坪)という広大な敷地で、数多くの優れた馬を育てましたが、最終的に経営の見直しが行われ、2012年には閉鎖されました。
その後、跡地は三嶋牧場として利用されています。
社会貢献活動と樫山奨学財団
樫山純三さんは、事業の成功だけでなく社会貢献にも力を入れていました。1977年に「樫山奨学財団」を設立し、優れた人材の育成を目指しました。
奨学金制度を通じて、国内外の若者を支援し、樫山さんの理念を広めていったのです。
樫山純三賞
樫山純三賞は、樫山純三さんの理念を受け継ぎ、社会貢献や国際的な視野を持つ人材を表彰するために2006年に設立されました。
特に、現代アジアについて独創的で優れた図書を著した著者に授与されることを目的としています。
賞金と副賞
受賞者には、賞状と楯に加えて、100万円の賞金と、オンワードホールディングスから高級スーツ1着が贈られます。これにより、受賞者の活動がさらに支援されます。
樫山純三賞の遺志を継ぐ影響
このように、樫山純三さんが亡くなった後に、彼の理念を受け継ぐ「樫山純三賞」が設立され、今もなお社会貢献と国際的視野を持つ人々が評価されています。
これにより、樫山さんが生前にどれほど社会に情熱を注ぎ、後世のために尽力した人物であったかが伺えます。
また、現在の関係者たちがその遺志を引き継ぎ、未来を担う人材を育て、次の世代に良い影響を与え続けていることも大きな意義を持っています。

樫山純三さんの理念が今も続いているのってすごいよね

亡くなった後も影響を与え続けるって、ほんとに偉大な人だったんだなって思う
父:樫山欽四郎は学教授で哲学者
樫山文枝さんの父、樫山欽四郎さんは、早稲田大学の文学部教授として多大な影響を与えた哲学者です。
彼は、ドイツ近世哲学や実存哲学に関する研究で知られ、特にヘーゲルに関する研究が評価されました。
樫山欽四郎氏の略歴
樫山 欽四郎(かしやま きんしろう)
- 生年月日:1907年5月1日、長野県小諸市に生誕
- 学歴:旧制上田中学(長野県上田高等学校)卒業後、早稲田大学文学部哲学科卒業
- 1949年:早稲田大学助教授に就任
- 1957年:早稲田大学教授に昇進
- 1960年:「ヘーゲル精神現象学の研究」により文学博士号取得
- 1969年:早稲田大学野球部長に就任
- 1951年:ヤスパース協会設立に参画
- 1957年:実存主義協会設立に参画、理事を務める
- 樫山奨学財団理事:兄・樫山純三が設立した財団で理事を務める
- 日本学術会議哲学研究連絡委員会委員として活動
- 1977年8月7日:死去、享年70歳
学問の道へ:早稲田大学での道のり
樫山文枝は、ヘーゲル精神現象学の翻訳で有名な樫山欽四郎の娘だったのだ。全く知らなかった。 pic.twitter.com/BVnO0sArdn
— shakti (@rinkaan4) March 29, 2024
樫山欽四郎さんは、長野県小諸町(現・小諸市)に生まれ、早稲田大学文学部哲学科を卒業しました。
早稲田大学では助教授から教授へと昇進し、学問に没頭しました。
大学内では、哲学の研究と教育において多大な貢献をし、後に大学院文学研究委員長などの要職にも就任しました。
哲学者としての功績:ヘーゲル研究と実存主義の牽引
樫山欽四郎さんは、特にヘーゲルの哲学に注力し、「ヘーゲル精神現象学の研究」という論文で1960年に文学博士号を取得しました。
彼の研究は、ヤスパース協会や実存主義協会の設立に貢献し、その理論的な業績は日本国内外に広がりました。

樫山文枝さんの父樫山欽四郎氏著:「ヘーゲル精神現象学の研究」 (1961年)(出典:Amazon)
ヘーゲル研究とは?
ヘーゲル研究は、ドイツの哲学者ヘーゲルという人が考えたアイデアについて勉強することです。
ヘーゲルは、「世界や歴史、人々の考え方はどうやって進んでいくのか?」という問いについて考えました。彼は、「物事は対立や矛盾を通して進化していく」といった考えを持っていました。これを「弁証法」といいます。
樫山欽四郎さんは、ヘーゲルのこうした考え方を研究して、ヘーゲルがどうして重要な哲学者なのかを日本の人たちにもわかりやすく伝えました。
学問と社会貢献:早稲田大学の教育者として
樫山欽四郎さんは、学問の枠を超えて社会にも積極的に貢献しました。
特に早稲田大学の高等学院長や第一文学部長を務め、教育の現場で活躍しました。
また、樫山奨学財団の理事としても、教育の振興に尽力しました。学問の発展に留まらず、社会全体に良い影響を与え続けました。
学外での活躍:早稲田大学野球部部長としても知られる
また、樫山欽四郎さんは学問にとどまらず、早稲田大学野球部の部長としても知られています。
東京六大学野球連盟理事や日本学生野球協会理事として、スポーツにも関心を持ち、学生たちのスポーツ活動にも深く関与しました。

「樫山文枝さんのお父さんがこんなにすごい哲学者だったとは!

哲学だけじゃなく、スポーツにも関わっていたなんて素敵よね
樫山文枝さんの育った家庭環境についての考察
樫山文枝さんは、その名家の中でどのような環境で育ったのでしょうか?彼女の父親や伯父の影響を受け、どんな家庭だったのかを探ることで、樫山文枝さんが育った背景を少し見てみましょう。
名家の中で育った樫山文枝さん
樫山文枝さんの父親は、哲学者であり早稲田大学の教授を務めた樫山欽四郎さん。学者としても非常に優れた業績を残しており、家庭内でも学問が重視されていたに違いありません。
さらに、樫山文枝さんの伯父、樫山純三さんは「オンワード樫山」の創業者であり、日本のファッション業界に多大な影響を与えた実業家です。
このような名家の中で、樫山文枝さんが育ったことは、非常に恵まれた環境であったと推測できます。
樫山文枝さんの実家
樫山文枝さんが育った場所は「武蔵野市吉祥寺東町」でした。この地域は現在、東京都内でも地価が高く、非常に人気のある住宅街です。
吉祥寺は便利な立地と豊かな自然に恵まれており、文化的な層が多く住んでいるエリアでもあります。
地価の高い地域で育ったということからも、樫山文枝さんの家庭は経済的に安定しており、文化的にも豊かな環境だったのではないかと推測されます。
女優・樫山文枝さんのお父上の訃報(昭和52・8・8)
— ねひつじ (@nehitsuji) May 16, 2024
早稲田大学教授、早大野球部部長 pic.twitter.com/6R3qVtRDVX
お嬢様育ちの可能性は?
このような家庭環境や住んでいた場所を考慮すると、樫山文枝さんが「お嬢様育ち」とされる背景には十分な理由があると考えられます。
父親や伯父が持つ影響力や、吉祥寺という高級住宅街での生活は、彼女にとって非常に恵まれたものであったことでしょう。
もちろん、これらはあくまで憶測に過ぎませんが、樫山文枝さんが育った家庭が、非常に穏やかで教育熱心なものであったことは間違いないと感じさせます。
まとめ
樫山文枝さんは、哲学者の父と実業家の伯父という影響力のある家族に囲まれ、非常に恵まれた家庭環境で育ったことがわかりました。
父の樫山欽四郎さんは早稲田大学の教授として学問の世界で活躍し、伯父の樫山純三さんは「オンワード樫山」の創業者として日本のファッション業界に名を馳せました。
さらに、樫山さんが育った「武蔵野市吉祥寺東町」は現在でも高級住宅街として知られており、これらの要素から、樫山文枝さんがいわゆる「お嬢様育ち」であった可能性は高いと考えられます。
今回は、1月29日(水)に放送される『徹子の部屋』に出演する樫山文枝さんのお父さんや伯父さんがどんな人物だったのか、その経歴を取り上げ、また樫山文枝さんが育った家庭環境についても考察を交えてお伝えしました。
当日の放送と併せてお楽しみいただけますと幸いです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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