ヨーゼフメンゲレの生い立ち・結婚・wiki経歴!人体実験や逮捕されなかった理由・ブラジル双子村の謎も

クレイジージャーニー

12月2日(月)20:55に放送された「クレイジージャーニー」では、ブラジルのカンジド・ゴドイにある「双子村」が特集され、その村の住民の約9割が双子を持つ家族だという驚きの事実が紹介されました。

この村と、ナチス・ドイツの医師ヨーゼフ・メンゲレがどんな関係があるのか、番組では興味深い疑問が提起されました。特に、メンゲレがこの「双子村」を作ったという噂は興味深かったですね

では、メンゲレとは一体どんな人物だったのでしょうか。彼がアウシュヴィッツで行った残虐な人体実験はどのようなものだったのでしょうか。

この記事では、メンゲレの生い立ちや学歴・結婚などの経歴をはじめ、アウシュヴィッツでの実験の詳細、そして彼の34年間にもわたる逃亡生活について掘り下げていきます。そして、メンゲレが双子村に関与していたのか、その真相もおさらいします。

ヨーゼフ・メンゲレとは誰か?

ヨーゼフ・メンゲレは、ナチス・ドイツの医師であり、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で数多くの残虐行為に関わった人物です。

ここからは、メンゲレの生い立ちや学歴、研究の成果、プライベートな生活について取り上げます。

ヨーゼフ・メンゲレの生い立ち

ヨーゼフ・メンゲレ

  • Josef Mengele
  • 生年月日: 1911年3月16日
  • 出生地: ドイツ・バヴァリア州ギューンツブルク
  • 家族構成: 三人兄弟の長男。父親カール・メンゲレ、母親ワルブルガ。
  • 家庭環境: 裕福で安定した家庭に育つ。父親は農業機械製造会社を経営。

ヨーゼフ・メンゲレ(出典:familysearch)

ヨーゼフ・メンゲレは、1911年3月16日にドイツのバヴァリア州ギューンツブルクで生まれました。

彼はカトリックの家庭で育ち、父親カール・メンゲレと母親ワルブルガのもと、三人兄弟の長男として過ごしました。弟にはカール・ジュニア(Karl Jr.)とアロイス(Alois)がいます。

父親は「カール・メンゲレ・アンド・サンズ」という農業機械製造会社を営んでおり、家庭は裕福で安定していました。メンゲレは、音楽や美術、スキーを好む優れた学生で、学校でも非常に優秀な成績を収めました。

トム
トム

メンゲレは優秀な学生で、もともとは平凡で温和な性格だったとも言われているよ。

マリー
マリー

決して、生まれながらにして残虐な人物ではなかったってことね

ヨーゼフ・メンゲレの学歴

  • 1930年
    高校を卒業。最初は哲学を学びたかったが、父親の強い勧めでミュンヘン大学医学部に進学

  • 1931年
    ボン大学に進学し、医学の予備試験を受験。同年、準軍事組織「デア・シュタールヘルム」に加入。

  • 1935年
    ミュンヘン大学で人類学の博士号を取得。学問の関心が哲学から人類学や医学に移行し始める。

  • 1937年
    フランクフルト大学の「遺伝学と人種衛生学研究所」に所属し、著名な遺伝学者オトマール・フェアシュアの下で双子に関する遺伝学的研究を行う。この研究は後のアウシュヴィッツでの人体実験に大きな影響を与えた。

  • 1938年
    「口唇口蓋裂の家系調査」に関する研究で医学博士号を取得。ミュンヘン大学医学部を卒業し、医学の道を決意。この頃にはナチス思想に強く傾倒していた。
マリー
マリー

メンゲレは最初は医学の道ではなく、哲学を学びたかったそうよ。でも父親の強い勧めでミュンヘン大学医学部に進学したのよ。

トム
トム

メンゲレが、医学よりも哲学に興味を持っていたというのは意外だね

ミュンヘン大学はナチス党本部が所在する都市にあり、メンゲレはこの環境でナチス思想に深く影響を受けたと考えられます。

・在学中、彼はフランクフルト大学の「遺伝学と人種衛生学研究所」に所属し、著名な遺伝学者オトマール・フェアシュアの下で双子に関する遺伝学的研究を行いましたが、この経験が、後のアウシュヴィッツでの人体実験に大きな影響を及ぼしました。

・また、大学時代にナチス党に入党し、その思想に傾倒。卒業後はSSに入隊し、第二次世界大戦では東部戦線に派遣され、1943年にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の医師として任命され、このことが後の残虐な人体実験に繋がっていくのです。

メンゲレの研究成果と功績

ヨーゼフ・メンゲレの研究は当初は、学術的に一定の評価を受けていました。特に、人類学においては、下顎構造に関する人種間の差異を探求した研究が評価され、1935年に博士号を取得しました。

また、フランクフルト大学での研究では、遺伝学や民族衛生学に関する知識を深め、特に双子の研究に関しては、後のナチス人体実験に繋がる重要な基盤となりました。

ミュンヘン大学在学中、1935年頃のメンゲレ(出典:enciclopedia)

医学博士号を取得した1938年の研究では、口唇口蓋裂の遺伝学的調査に取り組み、その成果が高く評価されました。

これらの学問的な成果は、当時の学術界では一見、真摯な科学的努力と見なされていましたが、後の人道的観点からは非常に批判されることになります。

博士号の取り消し

メンゲレが後にアウシュヴィッツで行った残虐な人体実験が原因で、彼の2つの博士号(人類学および医学)は戦後、取り消されました。

この事実は、メンゲレが当時一定の学問的評価を受けていた一方で、ナチスの人種差別的思想が彼の研究や行動に深く影響を与えたことを強調しています。

メンゲレの結婚(妻・子供)

ヨーゼフ・メンゲレには2人の妻がいました。

アイリーン(イレーネ)・シェーンバイン
・Irene Maria Schönbein
・結婚:1939年
・離婚:1954年

最初の妻アイリーン(イレーネ)とヨーゼフ・メンゲレ(出典:familysearch)


マルタ・メンゲレ
・Martha Mengele
・結婚:1958年
・メンゲレが南米で暮らしていた際、共に生活した妻。

最初の妻アイリーン(イレーネ)・シェーンバインとの間には、1944年に息子ロルフ・メンゲレが生まれました。

最初の結婚(アイリーン・シェーンバインとの結婚)

ヨーゼフ・メンゲレは1939年7月28日、アイリーン(イレーネ)・シェーンバイン(Irene Maria Schönbein)と結婚しました。

アイリーン(イレーネ)は1917年8月4日、ドイツ・ザクセン州ライプツィヒで生まれ、二人の間には1944年に息子ロルフ・メンゲレが生まれました。

メンゲレの家庭生活は、ナチス時代という特殊な時代背景の中で形成され、その背後にはナチスの政策との深い関わりがありました。

メンゲレとアイリーン(イレーネ)(出典:familysearch)

アイリーン(イレーネ)はメンゲレがアウシュビッツで勤務している間、ドイツに住んでいましたが、戦後はメンゲレと共にアルゼンチンをはじめとする南米へ移住しました。その後、アイリーンも夫を追って南米に渡ったとされています

戦後、メンゲレは追跡を逃れるため、身分を偽りながら複数の国で生活していましたが、その間も家族との関係は続いていたと考えられています。特に息子ロルフとは、可能な限り連絡を取り合おうとしていたと考えられます。

2度目の結婚

マルタ・メンゲレはメンゲレが南米に逃亡した後、1958年に結婚した女性です。

彼女はメンゲレの晩年を共に過ごした人物で、メンゲレはナチスの戦犯として追われる身であったため、マルタとは偽名を使うなど身分を隠しながら生活していたと考えられています。

マルタ・メンゲレについての詳細な情報はほとんど公開されていませんが、彼女はメンゲレの弟カールの未亡人であったという噂もあります。

ヨーゼフ・メンゲレの初期活動

ヨーゼフ・メンゲレは、ナチス・ドイツのイデオロギーに共感し、1937年にナチス党、1938年には親衛隊(SS)に入隊しました。彼の行動は、ナチスの人種政策と深く結びつき、後の残虐行為へと繋がっていきます。

メンゲレのナチス党・親衛隊入党

メンゲレは1937年にナチ党に入党し、翌年にはSS(親衛隊)にも加わります。1940年には第二次世界大戦が始まった後、ドイツ軍に召集され、すぐに武装SSの医療部隊に志願しました。

ナチスの思想とヨーゼフ・メンゲレの初期活動

メンゲレのナチ党・SS(親衛隊)入党

メンゲレは1937年にナチ党に入党し、翌年にはSS(親衛隊)にも加わります。1940年には第二次世界大戦が始まった後、ドイツ軍に召集され、すぐに武装SSの医療部隊に志願しました。

初期の軍歴と受賞歴

  • 1940年~1942年
    武装SSで医療部隊に所属し、ウクライナで従軍。戦場で負傷者を救った功績により、鉄十字章一級やその他の勲章を受けます。

  • 1942年中頃
    負傷により前線勤務ができなくなり、ベルリンの「SS人種および定住本部」に異動。ここで遺伝学者フォン・フェアシュアと再び協力関係を持ちました。

昇進とその後

1943年4月、メンゲレはSS大尉に昇進。この頃には、人種衛生や優生学の分野で活躍する立場になっていました。その後、アウシュヴィッツ収容所での活動が始まります。

メンゲレは、ナチスの思想に共鳴し、戦争を通じてその信念を実行に移していきました。

トム
トム

このころからメンゲレは、ナチスの思想に共鳴し、戦争を通じてその信念を実行に移していくんだね

メンゲレの行った人体実験とは

ヨーゼフ・メンゲレはアウシュヴィッツで、自らの人類学的研究と遺伝学の実験を進めるために、囚人たちを実験台にしました。その実験は被害者の健康や安全、そして身体的・精神的苦痛に対する配慮を一切欠いていました。

「選別」の実行

アウシュヴィッツでは、収容者たちが到着すると、まず「選別」が行われました。メンゲレはこの選別に積極的に関与し、特に双子の子どもを探し回りました。

選別では、健康な者が労働力として収容され、病気や老齢、妊婦や子どもなど、働けないと判断された者は即座にガス室に送られました。

メンゲレの実験の対象となった双子たち(出典:enterarse)

マリー
マリー

他の医師たちがこの業務を嫌がる中、メンゲレは楽しげに選別を行い、時には笑顔や口笛を吹きながら行っていたと伝えられているわ

双子を対象にした人体実験

ヨーゼフ・メンゲレは双子の遺伝に関する研究に興味を持ち、多くの双生児を対象に様々な実験を行いました。

彼は双子に対して週に一度の身体検査を行い、その後、健康な四肢を切断したり、故意に病気に感染させたりしました。

また、血液を一方の双子からもう一方に注入する実験も行われました。多くの双子はこれらの実験で命を落とし、また生き残った者も解剖されるために殺害されることが多くありました。

トム
トム

これらの実験は医学的な根拠からではなく、メンゲレの単なる好奇心で行われたという印象を抱いてしまうよ・・・

双子以外でも行われた人体実験

メンゲレは双子以外にも、さまざまな実験を行いました。

例えば、囚人の目に化学薬品を注入して目の色を変えようとしたり、死者の目を壁にピンで刺したり、さらに、身長の低い人々や身体的な異常を持つ囚人からは、歯や血液を取り出し、不要な薬やX線治療を施しました。

妊婦や子どもへの実験

妊婦たちもメンゲレの実験の犠牲となり、彼はこれらの女性に対しても無理矢理実験を行いました。

子どもたちに対しては、彼が「メンゲレおじさん」と呼ばれるほど、甘いお菓子を渡すなどして親しみを見せることもありましたが、その一方で、これらの子どもたちは後にガス室に送られる運命にありました。

ガス室での大量殺戮

メンゲレはビルケナウのガス室の監督にも関与していました。彼は、選別で「働けない」とされた収容者たちを次々にガス室に送る役目を果たしました。

ガス室で使用されたのは「ジクロンB」という青酸ガスで、これを使って数多くの人々が命を奪われました。メンゲレはその過程においても冷酷で、感情を見せることはありませんでした。

ナチス強制収容所で双子の研究をするメンゲレ(出典:enterarse)

トム
トム

ガス室で、メンゲレは収容者に対しては全くの無関心で、まるで人間ではなく実験対象のように扱っていたそうだよ。

・メンゲレの行動は非常に冷酷で、彼にとっては収容所での「選別」や人体実験は、単なる仕事の一環に過ぎなかったとされています。

・メンゲレは、その残虐行為に何の後悔も感じることなく、むしろその実験結果に興味を持ち続けていたと言われています。

戦後、メンゲレはどうなったのか?どんな生活だったのか

逃亡生活の始まり

第二次世界大戦の終結後、メンゲレは連合国に追われる身となりました。メンゲレは、終戦後の1945年から、1979年にブラジルで死亡するまで、実に約34年間もの間、逃亡生活を送りました。

戦後の混乱を利用して逃亡した彼は、まずドイツから逃げ出し、1949年にアルゼンチンへ向かいました。

アルゼンチンでは、偽名を使いながらしばらく生活を送り、農場の仕事をしたり、家族経営の農機具会社で営業を行ったりしていました。

ナチス親衛隊
左:リヒャルト・ベール(アウシュビッツ司令官)
中:メンゲレ
右:ルドルフ・フェルディナント・ヘス(出典:bbc)

しかし、1940年代後半から1950年代にかけて、メンゲレの過去がメディアで取り上げられるようになり、彼の居場所を突き止められる危険が増してきました。

南米での生活

1950年代後半から1960年代にかけて、ヨーゼフ・メンゲレはブラジルに移住しました。そこではナチス支持者の協力を得ながら農場を経営し、最終的にはカイエイラスに農場を共同購入しました。

また、他にも数回名前を変え、何度も住む場所を変えながら、農業や経営の仕事をして生活を続けました。

息子との再会

メンゲレの息子、ロルフは1956年以来父親と会っていませんでしたが、1977年にようやく父親の隠れ家であるバンガローを訪れました。

再会を果たしたロルフは、父親に対して過去の行いについて尋ねましたが、メンゲレは

「自分は命令に従っただけで、個人的に誰かを傷つけたことはない」

と答え、ナチス思想に対する反省や後悔の気持ちは一切見せませんでした。

トム
トム

久ぶりに息子に再会しても、メンゲレの姿勢は変わることはなかったんだね

マリー
マリー

そうね、実の息子との再会の後も孤立した生活を続けていたメンゲレ。精神的には依然としてナチスの思想に囚われていたのね

健康悪化と死

ヨーゼフ・メンゲレは1970年代初めから健康を害し始め、1976年には脳卒中を起こしました。

そして、1979年2月7日、ブラジルのリゾート地で泳いでいる最中に心臓発作を起こし、溺死しました。享年67歳でした。亡くなった後、彼はブラジル・サンパウロ州エンブ・ダス・アルテスに埋葬されました。

彼は「ヴォルフガング・ゲルハルト」という偽名を使っていたため、埋葬時もその名前で記録され、その後しばらく彼の正体は公にされることはありませんでした。

なぜメンゲレは逮捕されなかったのか?

捜査の困難さ

ヨーゼフ・メンゲレは戦後、連合国やイスラエルの情報機関モサドによって執拗に追跡されましたが、その正体を追い詰めることは非常に難航しました。

他のナチス親衛隊が捕まった際、彼らの尋問から得た情報を元にメンゲレの居場所を特定しようとしたものの、メンゲレは住所を頻繁に変え、証拠となる手がかりを巧妙に隠していたため、捜査は進展しませんでした。

メンゲレのパスポート(出典:mjhnyc.org)

また、メンゲレは南米各国のナチス支持者たちの協力を得て、偽名や偽造の身分証を使いながら生活していたため、追跡を回避する手段に長けていました。

アルゼンチンでは西ドイツの偽造パスポートを手に入れ、ブラジルに移住する際も偽の証明書を使いました。これにより、彼は一度も逮捕されることなく、長年にわたって逃亡を続けました。

警察と政府の無関心

また、南米ではナチス戦犯に対する認識が低く、当局の捜査も怠慢であったことがメンゲレを長期間逃亡させた理由のひとつです。

特にアルゼンチンやブラジルでは、ナチス戦犯をかくまうことに積極的に協力する者も多く、メンゲレはそのような環境をうまく利用しました。

なぜ彼は逃亡できたのか?

南米のナチス支援ネットワーク

ヨーゼフ・メンゲレが逃亡できた最大の理由は、戦後の南米に存在したナチス支持者のネットワークです。第二次世界大戦後、ナチス戦犯たちは「ラットライン」と呼ばれる逃亡経路を使い、南米へ密かに移住していました。

アルゼンチンを中心とする南米諸国では、元ナチス党員が支配的な政治的影響力を持っていたため、戦犯に対する捜査はほとんど行われませんでした。

メンゲレは元ナチスの関係者や協力者と密接に関係を持ち、彼らの助けを得てブラジルやアルゼンチンなどを転々としながら逃亡を続けました。

偽名と身分の操作

さらに、ヨーゼフ・メンゲレは複数の偽名を使い、身分証明書を巧妙に偽造することで自身の正体を隠しました。

最もよく使われた偽名は「ヴォルフガング・ゲルハルト」であり、これを使って彼は1970年代まで南米で生活していました。

他にも「ドクター・ファウスト・リンドン」や「S. ジョシ・アルヴェルス・アスピアス」などの偽名を使用しており、これによりメンゲレの正体が明らかにされることを防いでいたと言われています。

組織的な隠蔽工作

メンゲレの逃亡生活を支援したのは、単に個人だけでなく、ナチスの戦犯を匿うための組織的な支援もありました。

彼がブラジルに渡る際、元ナチスの協力者たちが手配を行い、移住先での生活支援をしていました。このようなネットワークに支えられたメンゲレは、ほぼ34年にわたって逃亡を続けることができたと考えられます。

カンジド・ゴドイの「双子村」との関係は?

第二次世界大戦後、ヨーゼフ・メンゲレは戦争犯罪から逃れるため、南米のいくつかの国を転々としました。その中で、ブラジルの「カンジド・ゴドイ」という村にも足を運びました。

カンジド・ゴドイはブラジル南部に位置する人口約7,000人の小さな村で、「双子の聖地」として知られています。ここでは、双子の出生率がブラジル国内の他の地域の平均より10倍高く、多くの双子が生まれる現象が起きており、その奇妙な多さが注目されています。

この現象とメンゲレとの関係については、メンゲレ風の医者が村人に薬を与えたという証言があります。そのため、メンゲレがここで人体実験を行った結果、双子が多く生まれたのではないかという説が一部で言われています。

しかし、この村は小さく、住民同士の血縁関係が密接であることから、双子が多く生まれる原因が遺伝的な要素や環境的な影響にあるのではないかとも指摘されています。

実際、この現象は1990年代まで続いており、そのためブラジルの研究者の多くは、メンゲレが直接関与していた可能性は低いと考えています。

まとめ

「見知らぬ医師」(2013年)メンゲレがアルゼンチン人家族のもとに医師として潜伏していた実話を元に映画化されました(出典:filmarks)

ヨーゼフ・ルドルフ・メンゲレとは

ヨーゼフ・メンゲレは1911年3月16日、ドイツのバイエルン州ギュンツブルクで生まれました。

ナチス・ドイツの医師としてアウシュヴィッツ強制収容所で「死の天使」と呼ばれるほど残虐な人体実験を行いました。特に双子を対象とした遺伝学的実験が悪名高く、倫理的に許されない非人道的な行為を繰り返しました。

結婚と子供

ヨーゼフ・メンゲレは2度結婚しました。最初の妻はアイリーン・シェーンバインで、二人は1939年に結婚しましたが、1954年に離婚しました。

アイリーンとの間には、1944年に息子ロルフ・メンゲレが誕生しています。

メンゲレの逃亡生活が始まると、アイリーンとは疎遠になり、最終的に離婚に至りました。その後、メンゲレは1958年にマルタ・メンゲレと再婚しました。

なぜメンゲレは逮捕されなかったのか

第二次世界大戦後、ヨーゼフ・メンゲレはアルゼンチンに逃亡し、その後ブラジルやパラグアイに転々としました。1958年にはブラジルに定住し、偽名や偽造パスポートを使って生活を続けました。

メンゲレが逮捕されなかった理由は、戦後の混乱や捜査体制の不備、ナチス支持者からの支援があったためです。また、メンゲレ自身が偽名を使い分け、身元を巧妙に隠していたため、国際的な捜査が十分に機能しませんでした。

今回は、12月2日の「クレイジージャーニー」で取り上げられた、「死の天使」と呼ばれたヨーゼフ・メンゲレの人生について深掘りしました。

彼はナチス時代、特に双子や身体的特徴を持つ人々を対象に、医学的名目で残虐な人体実験を行い、終戦後は約34年にわたり逃亡生活を送り、最期まで逮捕されることはありませんでした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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